なぜ公立学校は受験に不向きなのか。
最近の公立学校、特に高校における学力の低下は、はっきりとした傾向として現れています。それを裏付けているのが大学受験における合格者数。実際に、有名大学の合格者内訳でも私学の生徒が多くを占めており、名門校だった公立校は凋落の一途をたどっています。
公立校の地盤沈下は、受験に限らず、質にも現れており、校内暴力などさまざまな問題が噴出しています。最近では、小中学校で学級崩壊が起こっているありさまです。
それにしてもなぜ、そこまで公立学校の機能が低下してしまったのでしょうか。背景には、いろんな要素が絡んでいるのでしょうが...。
「受験だけが高校生活ではない、クラブ活動や人間として自由に考えたり、行動する高校生活があっていい」。このようなポリシーの学校もあります。
しかし、このような学校に限って、「しっかり受験勉強をして、目標の志望校に合格したい」と思っている生徒に対して、学校側が必死で受験措導をしてくれるケースは、ほとんどありません。受験志向の生徒にとっては、何も応えてくれない魯由放任の公立高校も多いのです。
なぜなら、受験指導というのは、手間、暇、エネルギーを要し、神経を使うものなのです。
前回の繰り返しになりますが、私は公立学校の機能低下の原因は、先生たちのサラリーマン化、もっと言えば、お役所仕事化に大きな原因があると考えています。
その意味で、このほど文部科学省が、公立学校の先生を対象に能力別給与の査定を打ち出したことは、本当に良かったと思います。さらには、指導力のない先生の再教育や民間人の校長先生化、そして、東東都の打ち出した都立高の自由競争化も、公立学校を活性化させるいい刺激になることでしょう。
生徒のために、自主的に熱心にやってきた先生にとって、これらはどれほど大きな励みになることでしょうか。先生とて人間。励めば優れた先生になれるし、怠ればマンネリ・サラリーマンのようにもなるのです。
良い学校とは、子供の能力や才能を伸ばすだけではなく、先生のやる気や、教育者としての才能をも伸ばす環境を備えた学校―と定義してもよいのではないか、と思うのです。