前回、受験地獄はあるのか、と書きました。
受験を地獄の責め苦のように感じるのは、周囲の環境のどこかに間題があり、受験生が明るく積極的に受験を受け止められないことによるものです。それと、間題を針小棒大に報道するマスコミの影響も見逃せないでしょう。
そのことは、外国と比較すればよくわかります。
ヨーロッパ各国では、日本のような受験競争はあまり存在しません。そのことは、社会構造ががっちりと固定されていることを物語っています。
イギリスでもフランスでも、厳然とした門閥制度が存在し、有名校への進学者はひと握りの名家の子供に限られています。名家でない入が努力を重ねてオックスフォードやケンブリッジを卒業したところで、東大や京大を卒業した日本のケースとは異なり、「社会に出てから大きなハンディがある」といわれています。
日本は伝統的に、中国の科挙制度(隋・唐時代の官吏登用試験)に似た慣行が存続していて、家柄にかかわらず、一流大学を卒業すればすべての人にチャンスが与えられます。これは、きわめて民主的で開かれた社会であるといえるようです。
このことは、友人のイギリス人が指摘したことです。
この恵まれた慣習を、積極的に活用しない手はありません。子供たちは、自分の可能性を大いに生かすために、敢然と受験にトライすべきでしょう。
要は考え方しだい。常に目標を持って前向きに取り組めば、「受験地獄」という書葉は、人間の心の中にあって、現実に存在しないことが理解できるはずです。
もし競争社会や過当競争が地獄なら、門閥政治を廃し、有能な人材を登用するために、万人に開かれた科挙制度は、七世紀から二十世紀初頭まで、千三百年以上も地獄をつくり続けたことになります。
もっと端的に言えば、志望校の目標を下げれば受験は楽だし、目標が高ければ、それだけ苦しいのは当然です。しかし、この苦しみを越えたときに約束される可能性は、他人がうらやむほどのものなのです。だから、受験生に言いたい。
「高い目標をもって積極的に挑むときの苦は、決して地獄ではなく、生きがいとやりがいに燃える、チャレンジの醍醐味なのだと...」